《村雨》鎌倉・大町八雲神社の由緒には○○が隠れている?! 後編
大町八雲神社に話を戻しましょう。
代が替わって、
頼義の息子たちの時代。
彼の三男に
源義光(みなもとのよしみつ)
通称・新羅三郎(しんらさぶろう)
という武将がいました。
言い伝えでは
彼が大町八雲神社を創建したとのこと。
源義光は
永保年中(1083)
『後三年の役』に参戦の途中、
立ち寄った鎌倉で
疫病に苦しむ住民たちを救うため
京都から八坂神社を勧請したそうです。
流行病はたちまちに収まり
以後住民たちから《祇園さま》とあがめられて
今日の八雲神社に至ります。
説話あるあるなパターンですが
鶴岡八幡宮と大町八雲神社の縁起を比べると
源氏一族の温度差や
源義光の野心が透けてきます。
父・頼義が《氏神》を勧請したのは
一族のためという利己的なものでしょう。
これに対して
息子・義光は民を救うためと利他的で、
《模範解答》のようにすら見えます。
これは義光と朝廷との距離感や
本家分家の格差が背景にあるようです。
源義光は後三年の役で苦戦する
長兄・源義家(みなもとのよしいえ)に加勢すべく
朝廷にお伺いを立てるも
却下されてしまいます。
当時すでに
義光は官職を得ていたのですが
結局無断で出兵し、役職は剥奪。
弟とはいえ、家臣ではないのに
身分を捨ててまで
東国へ下ったのはなぜか。
一説には、
中央の権力と結びついて
京都に基盤を築いた兄たちに遅れを取るまいと
東国に拠点を設け、
勢力拡大を狙っていたのだそう。
とはいえ、
分家なので本家を差し置き
《氏神》を勧請するのは角が立つし、
今までの絡みもあるから
朝廷と波風立てるのもよろしくない。
それならば
民を救う名目で足跡を残しておこう
と、義光は考えたのかもしれませんね。
父・頼義が勧請した鶴岡八幡宮の元宮
由比若宮のごく近くに
寄り添うように鎮座している
大町八雲神社。
源義光のキャラクターや野心を妄想しながら
参拝するのも一興かと思います。
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一文字 村雨
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