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《村雨》天神様は○○者の味方です 鎌倉・荏柄天神社

鎌倉の天神様・荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)は

福岡の太宰府天満宮、

京都の北野天満宮とならんで

《三古天神社》と呼ばれる名社です。

 

鶴岡八幡宮の北東に位置していて、

鎌倉幕府の鬼門に当たることから

源頼朝から尊崇をうけ

手厚い保護を受けました。

 

こちらには

菅原道真公(すがわらみちざねこう)

八雲大神(やくものおおかみ)

がご祭神として祀られています。

 

菅原道真公と言えば

学問に秀でたエピソードに事欠きませんが

誠実な人柄もまた帝に愛されました。

 

宇多上皇に重用された道真公は

右大臣の位まで登りつめ、

国政を委ねられるようになります。

 

この官位は、

道真公の家柄からすると破格でもあったため

左大臣の藤原時平一派に妬まれて

九州の太宰府に左遷されてしまいます。

 

志半ばの道真公は太宰府で亡くなりますが

その死後、都に天災が続きました。

 

極めつけは、

謀略を巡らせた藤原時平一派が非業の死を遂げた

都の清涼殿落雷事件でしょう。

道真公が没してから

およそ30年後の出来事です。

 

この落雷が道真公の無念の表れであるとして、

丁重に祀られるようになったのが

後の天神(雷神)信仰を形づくりました。

 

さて

道真公の死からおよそ100年後の鎌倉・荏草郷。

 

長治元年(1104年)晴天の空がにわかにくもり

雷雨とともに黒い束帯姿の天神画像が降ってきたといいます。

 

神験をおそれた里人等が社殿を建て

その画像を祀ったいいますが

清涼殿の落雷を彷彿とさせるに

十分だったからでしょう。

この伝説が、荏柄天神社の縁起です。

 

ちなみに

荏柄の社号は『荏草郷』の「えがや」が

後に転じて「えがら」となり、

『荏柄』と表記されたものだそうです。

 

鎌倉幕府を開いた源頼朝を始め

足利氏、北条氏、豊臣氏、徳川氏といった

時の権力者からも崇敬され

多くの寄進を集めました。

 

学問の神様だけでなく

正直者、努力を重ねるものを助ける神様としても

信仰を集める天神様ですが

鎌倉時代、三代将軍実朝のころに

こんなエピソードがあります。

 

『吾妻鏡』の建保元年(1213年)2月25日・26日条には、

謀反の疑いを掛けられた渋川兼守が

冤罪を訴えて和歌十首を荏柄天神社に奉じたところ

それが将軍・実朝の目にとまり、罪を許されたとあります。

 

これは道真公の《御神徳》に載せた訴えを

歌人でもあった将軍実朝が汲み上げた逸話でしょう。

 

つまり、無実の私を罰すれば、

その恨みは天神様にも劣らないですよ?

という言外の駆け引きがあったのではないでしょうか。

 

一方、時代は遡って

反逆者として滅ぼされた源義経のエピソード。

義経は腰越状で兄・頼朝の情に訴えました

あるいは、渋川兼守のようなエスプリがあれば

事態は変わっていたかもしれませんね。

 

荏柄天神社は参道も趣がありますが

ご神木の銀杏も大変立派です。

 

この銀杏は『天神画像』が天降った場所を穢さないよう

銀杏を植えてお守りしたのだとか。

参拝の後は、樹齢900年を超える巨木を

ゆっくりとご覧になってください。

 

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今回の記事はいかがでしたでしょうか。

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